市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

太宰治のこと

「ダメ男なんだけどなんだか気になっちゃうのよね」と間違って取られるのがいやだった。太宰治のことだ。わたしは太宰治の作品がすきなんであるが、太宰について語ると、そう取られることが多かったように思う。

「そんなんじゃない。」「どこぞの誰かの安っちい浅薄な恋心と一緒にするな」って思った。

不快極まりないのでよく考えてみたら、「なぜそんな風に思われたのか?自分が太宰の魅力はこれだと語っていないからだ」と気づいた。

なぜ語らなかったんだろう?

「言葉にならなかったからだ」、と思った。

 

好きすぎると、言葉にならない。

そこまで好きじゃないほうが「すき」って言える気がする、簡単に言えてしまう気がする。

 

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わたしが今回この本を手に取ったのは、図書館の資料コーナーでたまたま見つけたからなんだけど、読み耽るに至ったのは、自覚はなかったけど、たぶん、そういう体験があったことは長い時間、自分の根底に、清澄とは言い難いそんな状態の水が、ゆるゆると、いや諾諾と、流れていたからではないかと思う。

 

「別冊太陽 太宰治」は、簡単に言うと太宰の研究本みたいな感じだと思う。

太宰の周りにいた人たち、没後知った人、現在の文化人、様々な立場の人々が太宰について語る。作品を取り上げて語る人、思い出を振り返って語る人。太宰の残した絵。残っている写真。小説の題材となった風景の写真。

 

自分が太宰の魅力を語れるとは思わない。そんなに言語化する力をもっていない。知識の量は、圧倒的に足りない。

だけど未完成でいいと思った。

現時点のわたしは、こうだ。これからもっと芳醇に語れるようになるかもしれない。太宰の魅力を語る人は作品をよく読みこなしている、それすら、わたしはたぶん出来ていない。だけど、わたしなりに思った、太宰の魅力、でいいと思った。

 

 

「弱さ・したしみ(やすさ)」(したしみって、親しみっていうより慕情の念ってかんじ。)

 

案外平凡だったけど、自分の言葉で表すと、太宰の魅力はこれかな、と思う。

わたしは夏目漱石も好きなんだが、漱石に比べると太宰は貧弱だ。例えば、ロマンチストで装飾が多い、と以前書いたが、それらは「気障」ともいえて、「キザ」のキャラから想像できるように、たぶん中身は滑稽だったり、人に見せられないみっともない代物なもあったりするのではないだろうか。それをカバーしたい。だからカッコつける、気の障り、だ。気持ちの障害となるような。太宰の「装飾」は、そのようなタイプの「弱さ」を裏付けるものだったのではないかと思う。

 

この本にちょくちょく出てきたのだが、太宰の「したしみ(やすさ)」とは、ひとつには、

はじめ読んだ時「どうしてこの人は私の気持ちをこんなにわかるのだろう。誰にも言えない心の奥底まで、まるで見透かされてるみたい」と思う。

だんだん読み続けてるうちにそれが「太宰の気持ちがわかるのは私だけだ」になり、

さらにこじらせると「この感情がわかるのは、世界で太宰と私だけ」になる。

わたしも心当たりはある。多かれ少なかれ。

 

こじらせ、って書いたけど、文学好きって大抵こじらせてるなって思う。

先日の上白石萌音さんは動画で告白している。(「悲しみよこんにちはサガンについて発言したものですが、わたしにとっての太宰に大変に似通っていました)

 

「言葉にならない感情がここに全部書いてある」

「同じ出来事を経験したわけじゃないんです、だけどここに書いてる感情を私達は知っているんです」

「天才が書いた文章だな、って」

 

はい!どうかん!

天才が書いた文章。ほんとそれ。

言葉にならない感情の言語化。しかも、よくぞここまで。結局、太宰は文才があった。

もいっかいいう。「太宰は文才があった」。ただのダメ男じゃなかった。

 

太宰は寄り添うんだと思う、っていうか。一体化してしまう。読者と、だ。

 

太宰の語りは「囁き」だ。独白とか告白。イタコみたいな(太宰の生家の地蔵堂からお恐山のイタコがたくさん出ているとか書いてあったのおもろい)。太宰の独白のはずが、誰かの声が太宰を通して漏れるような…誰って、自分…?みたいな…

「孤独」を知っている読者ならなら魅せられてしまうのではないか。抗いがたい「吸引力」をこの人は持っている(きがする)

 

その証拠っていうか、わたしが感じたのは、

山崎富栄である。最後に太宰と心中した女性だ。わたしはこの人は読者と同様に太宰と一体化していたんじゃないかと思う。

「どうして太宰さんは私の気持ちをそんなにわかってくれるんですか」「太宰さんの気持ちをわかるのは私だけ」「この気持ちがわかるのは太宰さんと私だけです」…

 

山崎富栄の記録はほとんど残っていないようだが、「みんなが太宰さんをいじめます」という言葉を残していたことは何度か見聞きしたことがある。それが裏付けになる気がする。

「太宰さんがかわいそうです…」「私がかわいそうです…」……

 

余談だが、わたしは太宰に関わった女性が多すぎて、名前が覚えきれなかった。

わたしは同じ女だからなのか、関わった女性にインタビューしたい。切にしたいぞ。

ちょっとひどすぎるだろ。なんだよ、一回目の結婚した小山初代なんてひどいめにあってるぞ。太宰って結婚決まってるのに別の女と心中したんだよ。しかも相手の女性は今で言うホステス(銀座カフェの店員)で、女だけ死んだんだよ。結婚の話が進んでる段階でだよ。もっというと太宰って高校くらいから舞妓とのところに行き来してていい関係の舞妓がいたのに、心中した相手はその女性ですらないんだよ。別のホステス。許せねえだろうよ。何がっていろいろありすぎだが、私をなめるなよ、と思うだろうよ。てめえ何やってるんだ、お前のちん◯だけは入れさせねえ。くらい思うだろうよ。あ、思わないのかな?だとすれば、それは「時代」かもしらん。わたしはしかし「時代」だからこそ、当時を生きた女性の言葉を聞きたいのだ。それが「これでよかったんです」とかさ、わたしの意にそぐわないものでも。本人の口から溢れる言葉を聞きたい。記録に残っていないのだ。きれいにないのだ。小山初代だけじゃない、その後に関わる複数名の女性も差はあるけど、ほとんど残ってない。ちなみに太宰治の墓はご立派にあるけど、一緒に心中して死んだ山崎富栄のお墓ってどこにあるの。

そのあたり、当時の女性の不遇さを思う。

 

 

もうひとつ。これは書いてあったことでおもしろいな〜!って思ったこと。

 

太宰の惹きつける魅力(=吸引力)は「どこまで自伝でどこまで創作か」にあるとわたしは思う。

富嶽百景という作品に「月見草」が出てくる。

 

「富士には月見草がよく似合う」

とは有名な一節だろう。

 

 

作家の長部日出雄さんはこう述べている。月見草は、夜咲いて朝になると萎む花だそうだ。しかし、この小説内ではあたかも月見草は朝や昼間に咲いている。しかも日本で「月見草」と言われてイメージされるものは「白い花」がほとんど。しかし作中では「黄色」の花。黄色の月見草はないわけではないが少なく白より夜に咲くらしい。

 

太宰は本当に富士を背景にして咲く月見草を見たのか?それとも創作なのか??

 

長谷部さんのすごいところはその明確な答えを出さななかったところ。

そこがまたわたしは太宰をわかってるな〜!と太宰愛をかんじる

 

「狂い咲き」って現象がある。桜が咲くはずのない季節に花を咲かせるような。もしかしたら咲いていたのしれない、黄色い月見草も。神の息が吹きかかったように。それを太宰は偶然にも、目撃したのかもしれない。桃源郷のように。

あるいは、完全な太宰の想像なのかもしれない。

どちらにしても、その一点にだけ思いを馳せるだけでも、この小説も魅力は一気に膨らみを増す。魅せられる。きがする。「吸引力」だ。太宰の。

 

この人は現実を書いているのか?想像が生み出した虚構なのか?

この人は自分のことを書いているのか?どこからが創作なのか?

この人は独白をしているだけなのか?私に囁きかけているのか?……

 

 

あ〜書いててつかれてきちゃったーー

もうやめようかな。

「太宰の書く文章は『落語』的で落語の語り口調にあるような『音楽要素』がある」と記述されていたのもおもしろかった。そう、太宰は落語家っぽい。すぐユーモアに走る。「道化」というだけある。作品津軽とかさ、生まれ故郷である津軽の悪口をたらたらと愚痴ってさ、ふつうただの愚痴って聞いてらんないのに、なーんか皮肉ってるのに憎めなくなるの。ぐいぐい読ませやがるの。くそう。言いたいだけゆって憎まれないとか、お前わがままおぼっちゃんか。そう、太宰は正真正銘のおぼっちゃんなの。生家がお金持ちの。しかしその苦悩も半端ない。この矛盾が。く〜っ

「あなたは私が好きなんじゃなくて私の身分が好きなんでしょう?」

このセリフは響く人にはめっさ刺さるだろう

ほんでさ自分がさんざん津軽の悪口いっときながら、「自分以外に津軽の悪口いうやつは許さねえ」みたいなこともゆってるの。なんなの。このひと。こういうひと、今でもいるよね。意味分かんないね。だけど読んじゃっているのは、知っている気がするからか。ああ、吸引力ってやつなんか。ここでも。ってなる。はあ〜〜〜なんなんだろね〜

 

話を最初に戻すと、「ダメ男だけど、なんだか気になっちゃうのよね」ってさ。

それって上から目線な気であるぶん、太宰(とか太宰ワールド)と明確に一線を画しているように見える。

太宰自身が権力や支配を生理的に受けつけなかった。上からの力。

例えば太宰は家父長制に対する嫌悪感がスゴイ。戦争への強い憤りも感じる。強者に対する嫌悪が強いからなのか、太宰が選ぶ女はホステスとか社会的に虐げられた立場だったり社会の弱者が多い。

余談だが、太宰の家父長制に対する嫌悪は「父性」への嫌悪だと指摘していた人が何人かいた。実際、太宰に欠けていたものだ、とも。そう。太宰はどこか女性的。それが「同一化」、「吸引力」、私生活における複数名の女性…、大体どの女性も太宰の犠牲といっても過言ではない、生涯…

 

太宰好きを公言するわたし目線で言えば「ダメね」じゃなくて、自分的に残念であるが「同一化」のほうがより近い。

「ダメだなあ」と思いながら、そのダメさを自分の中に自覚する。

「あなたってダメね」とは言い切れない、

そうやって言い切れる人と十把一絡げにされたくない。と思う。強く。

生きている世界、普段見えてる風景が違う気がするから。

 

あーそうか、だからわたし「ダメ男なのになんだか気になっちゃう」みたいに扱われたことが嫌だったんだな。書いてて思った。

 

この研究本を読みながら「ああわたしは実はこうだったんかもな」と思うのは太宰の小説に似ている。次々と自分の謎が、太宰の謎が、世界の謎が、明るみになり、外の世界へ光に照らされながら放出されるような。

これって心理学用語でいうところの「昇華」ってやつなんかな

成仏しろよ。わたしのそこ。願うぞ…

みたいな…