市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

自分らしさってなにさ。からなぜかりゅうちぇる出てきた

「自分らしさ」というものを思った。

かつて自分を追求してみたらよくわからなかった。自分がわからない。

「自分を好きになろう」「自分に自信をもとう」と言われても、「わからないもの」を好きになるとか自信をもつとか、ピンとこない。

しかし「わからない」ということは自分が360度進化していける、ということでもあり、そう思ったから「自分らしさ」というものに昔から興味が薄いまま、今日まできた。

ところが、傾聴を勉強していたら「自分の声を聞く」という行為が必要だとわかった。

やってみた。

はじめは不慣れだったが、今思うこと。

「自分らしさ」とは、「今ここ」の「自分」がどう感じているか。だったんだと思う。

大事なことは「矛盾」は起きる、ということ。

 

「自分らしさ」という言葉は誤解されやすい思った。

例として適切かわからないけど、

わたしはロック音楽もまあ聞く。クラシック音楽もまあ聞く。

ロック音楽を聞く人のイメージって、なんだか反骨精神旺盛そうだ。

クラシック音楽聞く人のイメージって、なんだか大人しそうだ。

どっちもわたしだ。と思った。

(ついでにもっというとJpopが一番多いし、一番好きなアイドルはKpopだ)

もしわたしが「わたしはロックがすきです」と前面に出したら、それが「わたしらしさ」になるだろう。反骨精神旺盛な。たとえばね。

少なくとも他人はそんな傾向をもって自分を見るだろう。

 

ずっとそういう見られる場所にいると、「クラシック音楽もすき」な自分がなんとなくうそぶいて見えてしまって、だんだん、「クラシックもすきな自分」は薄らいでいき、ロック好きな自分がクラシック好きな自分より大きくなって、気づかないうちになんとなく自分ははじめっから「ロックのほうがよっぽど好き」だったような気がしてきたり。する。

 

 

 

生活は人を作る。

ずっとそんな環境にいると、いつのまにか「クラシック」がすきな自分を後ろに追いてきてしまう。

 

だけど本当は、

「置いてきた自分」も自分の一部なのだ。

(カウンセリングはそこの声も聞けるかどうか、もわりと要な気がする)

 

音楽を例にするとわかりにくいが、

「置いてきた自分」には「置いてこなければならなかった」理由があるのだと思う。

 

例えば「そうしたほうが生きやすいから」。つまりは、そうやって自分を守る必要があった。生きるために。

親に虐待された、殴られた、痛かった、辛かった、苦しかった、死にたかった。いつのまにか「痛い」という感覚を肉体的にも精神的にも置いてきてしまった。「生きていくため」だった。「生活を続けるため(普通に生きるため)」。やがて、自分の痛みがわからなくなった。ゆえに、人の痛みやひいては人の感情がよくわからなくなった。

 

「置いてきた自分=痛かった自分」に意味や価値があるのだと思う。

なぜ置いてくる必要があったのか。

自分の声を聞く。という行為は、従って、「自分らしさを見つけること」では語弊がある。矛盾してる自分、理屈にならない自分、をまるっと受け止めることだと思う。受け止めるとは、受け入れられたらいいけど、出来ないならしなくて良い、ただ打ち消さないこと。あることを知っていること。

 

自分の痛みを知っている人は他人の痛みに気づくことができる。

 

自分の「感じ」を知っている人は他人から何を言われても、たとえ揺さぶりかかっても、最終的には自分に戻ることができる。

 

 

突然だが、りゅうちぇるが亡くなったことがいまだに悲しい。

りゅうちぇるがよく言っていた。「自分らしく生きたい」。

自分らしく。

わたしは想像するのだが、りゅうちぇるは若い頃から(中高生とかから)生きにくかったのかもしれない。男の子を好きになってしまう自分。なぜだろう…自分はおかしいのかな。

自分ってなんなんだろう…。自分をずーっと探求してきたのではないだろうか、それが生きる術だったのではないか。

わたしは同性愛者ではないけどシンパシーを感じるのはそこかもしれない。

りゅうちぇるの言う「自分らしさ」とは、「ロック好きな自分」のような自分を固定するような行為ではなくて、「感じるまま」だったのではないか。

感情と捉えれば、矛盾が起きる、理屈にならないことが起きる。そう思うと、わたしはいろんなことが納得できる。

男性だったりゅうちぇるが突然女性になったのもわかる。

結婚した時は女性であるぺこさんを本当に好きだったことも、子供ができたことが本当にうれしかったことも、それが自分の幸せだと疑わずに思ったことも、わかる。

だけどそれを全て捨てるような行為でも女性になりたかったことも、わかる。

 

人と違う生き方の先っぽを生きる。

 

どんなふうになるのだろう。興味深かった、けれど亡くなってしまった。

まるで自然の流れに呑み込まれるように。わたしには見えた。

自然淘汰」されるように。

 

感じるままに生きたいのだ。誰だってそうだ。

しかし自由な生き方は誰かを踏み台して成立するりゅうちぇるの場合ぺこさん然り「誰かに迷惑をかける」行為であることは必然。

 

しかし、それでも誰かを踏み台にしても自分の感じを大事にしたいと思うのか。(「いつかできるときに恩返し」、わたしは相互扶助のスタートだと思う)

それとも周りに迷惑をかけることはやっぱりつらいとやめるのか。

 

どちらも等しく価値がある。

大事なのは、自分で選ぶこと。

りゅうちぇるは前者を選んだのだと思う。幸いにして、ぺこさんがそれを許した。すごいと思う、深い愛だと思う。理解したのだろう。

 

そんなりゅうちぇるが死んでしまったことが、いまでも、わたしは悲しい。

なぜ死んでしまったのだ。やっぱり思ってしまう。

生きるのだって死ぬのだって自由だと思っている。

感情とは移ろい揺らぎ、説明できない一面があり、矛盾を孕むこともある、そういう「性質」をもっているのだと思う。

自分らしさを固めすぎるあまり、自分をわかりたいと思うあまり、自分を向上させたいと願うあまり、心を「固めよう」とすると病気になるのだとわたしは思っている。自然に反するとろくなことがない。からだ。(自然に反するとは?という命題)

鬱は、そう思うと、身体からの危険サインともいえるだろう。

このまま行くと、心身が死滅するよ、って。

 

全てはうまくできている。

 

 

 

英語の先生と役所のこと。

英語の先生が尾鷲の家を売った時、税金を多く払っていたことが判明したそうだ。その額10数年にして1千万円近く。(用水路が市や県のものだったのに私有地としてカウントされていた)

役所に訴えたそうだ。

奥からえらい感じの人が出てきて、「申し訳ないが返金ができない」と言われたそうだ。

「それはおかしいでしょう」と先生が食い下がったら10万円くらい?返金に応じることになったそう。

「あなた何考えてるんですか。私が払った金額はこんなもんじゃありません」と叱責したら額が30万円に上がったそう。それでも

「この額でも…。息子の知り合いの弁護士に頼もうかしら…」と先生が思わずぼそっと言ったら一気に100万円くらいに釣り上がり、

「これ以上は出せません」と深々と謝罪をうけたそうだ。

 

実際にお金もらってそこで終わったそうだが、先生は見た目(中身も)がやったら上品で知性あふれるので、(「皇族」ってゆってた)、意図せずして口からこぼれた「知り合いの弁護士」にやったら真実味あったんだろなあ〜〜っておもった。

ついでに先生の息子さんは開成を出た優秀な医者だったので、知り合いに弁護士が実際にいる。

 

みなさまも役所に行く時は弁護士がいる「てい」でいくといいことあるかもよ。(ない)

英語の先生のこと。

自分の毒舌に悩むことがそこそこ多い。でもすぐ忘れる。

よくよく考えたら母親も育ての親である英語の先生も毒舌だったから、仕方がない。

母親の毒舌っぷりは洒落にならない殺傷力だったので英語の先生を。一例。

ある時英語の先生がわたしにゆった。

 

この間あなたの地元駅まで行ったら目の前を女の子が5人くらい歩いててね〜何かの拍子にこちらを振り返ったのよ。そしたらびっくりしたわ〜。全員ブス!ひとりくらい美人がいてもいいのにねえ。全員よ!一人残らずブス!へちゃむくれ!へちゃ!

 

わたしはその時ブスを「へちゃむくれ」という。と知った。略して「へちゃ」だということも。先生は「おへちゃ」ともよく言っていた。丁寧語になっても失礼であることには変わらない。

 

先生は三重県尾鷲市に結婚してから長年住んでいたのだが、尾鷲市を田舎だと言い、どっかバカにしていて、尾鷲の話をするときは

「尾鷲のすっぽこ谷」とゆっていた。

 

今ならポリコレ的にどっちもアウトだ。

けれど先生は再三わたしに話してくれた

 

あなたね〜「世間様」なんていうけど「さま」じゃないわよ。世間のいうことなんて気にしたらだめね。言うだけで何もしてくれないわよ。だったら自分の好きにやったほうがいいわ。あなたっあなたは自分の好きに生きなさ〜い!

 

先生は息子さんを亡くした時、お墓を尾鷲から千葉にうつした。ひとりで全部やったのだ。尾鷲の家も売った。そのたんびに80前後で千葉から尾鷲に移動して中期滞在とかやっていたので、帰ってくるとわたしににっこにこの笑顔を向けて、そして「あなたはいいわね」「田舎は嫌いよ」って話してくれた。

 

学校合格しました

遅れましたが学校の進級試験に合格しました。ありがとうございます。

うれしいのは違いないけど、いまだに実感がわかず、絶対不合格だと思っていたので、誰よりも「何が起こっているのかわかっていない」と思われます

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どこへ行ってもなんとなく馴染めた気がしたことなかった、わたしが、その学校では「変わり者と言われても」「対等に(=腫れ物扱いもされず)」、『受け入れられた』と感じることができた、ことに対する「喜び」「感謝」は変わらず、いろんな理由で受験しなかった人、不合格だった人、のぶん、しっかり勉強しよう、とは、今は、思っています。(わたしは外部の人間だったの。受講生はこれまで120人近くいましたが外部は3〜4人)

 

募集人数は60人と書かれていましたが、私達の1期前はフタをあけたら20数人しかいなかったとかその時によって違うようで(噂では「相対評価」ではなく「絶対評価」出来ていたら合格だろう、と)、情報が公開されておらず、「倍率は?」「合否の基準は?」等々、まったくわかっていません。LINEも静かだなあ。

11月下旬にこれからのことについて連絡があるそうです。開講は来年の1月らしい。

やることは「カウンセラー養成」としての「技術面」」に入るそうです。これまでは「基礎教養」。終わりは再来年の12月を予定しています。月2日でオンラインと対面授業両方を予定。対面の時は学校に宿泊します。その点はこれまでと同じ。

養成講座は基礎教養よりはるかに厳しいそうだ…やる内容もガラッと変わるらしい。ガクブル基礎教養で既にに死んだ、こわいいいい、、、、……

 

わたしは人に心を閉ざしがちなので、カウンセラーに向いてるとは思えないし、せっかちだし、言葉がキツイし、すぐ解決したがるし、堪え性もなく、「黙って寄り添う」にはずーっと遠い性格なので、適性までもが著しく欠けますが、しかし、

 

これも神の思し召し。

流れるまま。

道が開いた水路が開かれた流れがきた。このままのるべしのるべし。

みたいなマインドで、しばらく、行けるところまで行こう。流れに身を任せてみよう。って、思っています(こわい)

 

 

 

 

サレ◯◯と言われたことのある方へ

恋人や結婚相手に浮気不倫されたらどうするかって話を昨日長々とした。

忘れるしかないと思う。とわたしは話した。

起きたことはもう消せない。起きた事実は忘れることはできない、しかし受けた「傷」は消えずとも、「痛み」は、時間と共に、かさぶたとなり、薄皮が剥がれるように、少しずつ少しずつ和らいでいく。

 

解決しようとする人がいる、なんとかして「傷」を「無く」しようとする人がいる、

違うと思う。「無く」なることはないから。忘れさせてやることだ。起きたことではなく、「痛み」という感覚を。「無く」するのではなく和らぐまで。

 

時間はやさしい

何も言わない

何も操作しようとしない

 

(仮にサレ◯◯に否があったのだとしても、それは第三者から見える世界で、本人はたぶん違う、それが「全て」だ。間違っていても。間違いを「正し」て(それは「誤解を解く」「思い込みをほぐす」という言い方で行われる)事態が好転したケースはどれほどあるだろう?第三者カップルの浮気や不倫に口を出すべきではないのはそういう理由だ)

 

 

された側は、起きたことを無理に忘れようとしなくていいと思う、だって忘れられないから。

痛みが完全に消えることもないだろう、普段忘れていても何かの拍子にちくっとする、それは死ぬまで続く。

 

わたしは思うのだが、

浮気相手不倫相手を罵りたくなる時間は必ずあるだろう、無理もない、好きってそういうことだ、だから浮気不倫相手を嫌いな感情を打ち消さなくて良い、

もう浮気不倫相手に対して普通の感情には戻れない。認めることだ。(汚い心はあなたにもわたしにもあるのだということ、それだけ人を憎むことができるほどの)

 

だが「相手の不幸」を望んではいけない。

 

あなたが、わたしが、浮気不倫相手を嫌いでいることを自分に「許す」なら、

相手が幸せになることも等しく許さなければいけない。

相手が幸せになることを許せないなら、あなたの憎しみも許してはならない。

 

あなたはわたしは自由に生きる権利があるが、相手も、それに等しく、自由に生きる権利がある。

たとえ「相手が罪を犯した」とあなたがわたしが思ったとしても、相手の「領域」を侵して良い、ということにはならない、それとこれとは別の話なのだ、

酷かもしれない、しかし、

 

あなたから、わたしから、見えないところで相手が幸せになってくれるなら、

あなたも、わたしも、平和で居続けられる。

それでいいじゃないか、と思う。

 

時間は痛みを和らげてくれる。

 

だから、関係のない周りの人間はほうっておいてあげることがやさしさなのだと思う。

「ほうっておけない」と(何らかの事情で)どうしても思うのなら、そばにいてあげてください、黙って「離れない」でいてあげてほしい

本人が語りだすまで待ってあげてほしい(語りだすことすらないかもしれない)

それが難しいなら、何もするな。だ。

 

それって「時間」ほどにはかなわなくとも、時間に似たやさしさ、なんじゃないかな、

っておもうようになった

自分に自信ある・ないに興味がない、その暇あれば…

Podcastを流しながらひたすら断捨離。が楽しくて仕方がない。

以前も紹介した「クラシFM」がすきだ。石田ゆり子さんのラジオもすきだ。

気付いたことがある。

わたしは話を聞いてるけどそんなに聞いていないのだ。内容はうっすら把握してるけど、内容より声のトーンを聞いているのだと思う。声の高さ・速さ・声に表れる感情など。内容をうっすらとしか把握してないのは、aiko「透明ドロップ」を二千回も聞いたのに歌詞を覚えていないのにも似ている。

 

そんな生活はあたかも洞窟で修行している修行僧のようでもあり、奥へ奥へと潜りこむ点は瞑想のようでもあり。気付いたことを書き留めたい。

 

自分に「これは伝えたいな」と思うものがある時、一歩引いて話したほうがいい。

クラシさんの話し方を聞いていて思ったことだ。ゆっくり話す。噛み締めて話す。奇をてらうような話をしない。相手をあえて笑かそうとか驚かせようとしない。素朴に、だけど率直に、訥々と思いを伝える。

「一歩引く話し方」というのは、相手に受け取る余白を与える話し方だと思う。

 

わたしは思いが強いほど、押し付けがましい。早口、「絶対」とつい使う、「思う!」というけど「べき」に聞こえる。

そんなつもりはないのに言い方が強くなるから「白黒思考」と言われる。

グレーの大事さはわかってるつもりだから憤慨する。伝わってない気がする。

相手に「余白」を与える話し方じゃないからだ、と思う。

 

 

他のPodcast番組も聞くようになった。

「わたしって子供だな」と思うことが増えた。「ブラックジャック」のピノコが憧れの女性なのですが、なんていうか、マインドが8歳ピノコはもっとちっさい)。それをよしとして生きてきたのに今は少し違う。

キーキーうるさいよな、って思う。ちゃかちゃか落ち着きないよな、って思う。

20代くらいから思っていたが「もしもうひとりのわたしがこの世に存在したら、友達になりたくないな」と思う。

 

自分が嫌いなわけではない。好きでもない。「自分のことが好き・嫌い」「自分に自信がある・ない」に興味がないたしであることに興味があるいかにしてわたしであるか(不完全でOK)。これだけなのに結構大変だと近年知った。そうであるがしかし自分以外に自分がいたらうざいな、と思う。面倒だと思うだけ。わたしはひとりでじゅうぶん。

 

が、8歳の自分でいいのかな、と思うことが増えたのだ。そんな時は「いやだな」と思う。こうやって人は大人になっていくのか、と思う。「落ち着きのある話し方」を身につけること。人との衝突が減っていくこと。生きやすさでもあるだろう。いいことではないか。

なのに、わたしは強烈に反発心を覚えてしまうのだ。8歳だからか?

わたしはわたしでいいのに。って思う(クラシさんの良さはクラシさんの良さなのだ)。わたしって案外つまんない人間だったんだな、と思う。こんなことを気にしていやになる自分がそもそもとしてつまらないからだ。何が正しい何が悪いに興味はないが、つまらないのはなにか強烈にいや。そこに意味はない。(むしろ無駄)

 

音楽よりPodcastにハマってる日々ですが、そんなことを思っています。

(「だなと自分で思う自分(不完全な自分)」を見つけました。ちゃんといました。)

これからも流れ続けていくのでしょう。乞うご期待、だ。自分に。

 

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いい写真だなあ。撮ったのわたしですが。

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服に命はあるのか?

インスタのファッションインスタグラマー(フォロワー万単位)の方が「着なくなった服はどうしていますか?」と聞かれ、「中古で売るって手段もありますがその手間と時間を考えると割に合わないのでやりません。その手間と時間があるならもっと自分磨きのために使いたい」(はっきり書かれていないが要は捨てるのか?と答えていてわたしはびっくりしたのだ。

 

自分はリサイクルに持っていくことが多いです。服への愛が強いのだ。服に命はないのに、捨てられない。ケチってるのではない、捨てるのがかわいそう。服が。着なかったくせに、捨てるのはかわいそう。

 

ある時リサイクルショップで自分の出した服が店頭に並んでるのを見た。やがて店頭から消えたので「旅立ったのね…」と思ってたら、1年ほど経って同じ店で再会した。

チェックのミニワンピースだったんだけど、エストのベルトはなくなり、しわしわになり、汚れ・シミまで…

 

出戻り娘を見た気持ちだった。

 

”何があったんだい…嫁入り先で…、、、DVかい…ひどいね…かわいそうに…、、、”(心の叫び)

 

服に命はないのに、「捨てられた人間」「選ばれなかった人間」と同等に見えてしまい、涙を誘う(泣いてません)

 

それでもわたしが買ったところで一度着なかったから手放してるわけで、その時は泣く泣く買わずに見送った。

 

だから、「服好き」を公言してるインスタグラマー(都内に出ると必ず時間がなくても服を見ると言っていた)あっさり処分できることに、にわかに信じがたかった。

 

服好きの「好きの種類」が違っているのかもしれない。

 

服について語るとまだまだ続くけど、おしまい。

 

 

写真はマキシマリスト時代のわたしのお部屋(の一端。画像も断捨離して残ってない)物が多すぎて散乱中の部屋にポツネンたたずむはなこさんが愛らしい…

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スーツケースはしまう場所がなくて出しっぱなし。是常識哉。

おしゃれな人は根っこからセンスが違うな〜って思う!わたしは服好きだけどただの服好きでーす!