市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

椎名林檎の鬼才っぷりを角田光代で証明したひ!

「すべりだい」(「幸福論」のB面 椎名林檎

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「幸福論」椎名林檎

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昨日aikoを取り上げたので同期の椎名林檎さんのデビュー曲について。aiko椎名林檎は共に98年にメジャーデビューしており、アマチュア時代から既知の仲。

 

「すべりだい」は「幸福論」のB面ですが一体どんな歌なのでしょうか。ざっきうりいうと

 

別れた彼氏との交際を『今の私ならすべらない』とひたすら後悔している。

 

「幸福論」とはどんな歌でしょうか。ざっくりいうと

 

『あなたがいるだけで幸福なんです』

 

と歌っている。

でいいですか…?信者じゃない、ファンのみなさま)

当方椎名林檎は好きですが椎名林檎のファンばあんましすきくない、ボソボソ

 

A面では「恋愛賛美」を歌い、B面では「シビアな恋愛」を歌う。

理想と現実。表と裏。陰と陽。

あなおそろしや椎名林檎の鬼才っぷり。すべて計算済み、恋愛の表と裏をこの2曲で表現した。

とわたしは言いたい

 

(余談ですが、椎名林檎さん自身は後日「すべりだいのほうを表題にしたかった」「幸福論は理想ですよね」「理想を追い求める10代のような」「人を好きになったら『いてくれればいい』なんて綺麗事。嫉妬したり独占欲だったり、実際は」等々。それが当方印象深く残っているのですが、検索してもリソースが見つかりませんでした、すみません、検索力がないのかも…)

 

ここまで書くと「人を好きになるってすてきだよ!(はあと)」という派閥のメンツから怒られそうなので、ワタクシの敬愛する小説家角田光代さんの一節を取り上げたい。

ちなみに角田さんを個人で振り返ると、結婚に至るまで恋人が途絶えたことがないという恋愛無双な方。小説でも恋愛を書かせるとダントツ面白い(と思う)。余談ですが現在は、一度の離婚を経てGOING UNDER GROUNDの元ドラマーで10歳前後年下の河野丈洋さんと再婚。

 

以下エッセイ「世界は終わりそうにない」角田光代より『いいものでもないけれど、でも。』より、抜粋↓

 

 (相手を)理解したい一心で、すがりつくように(音楽や小説などを)見たり聴いたりするようになる。恋愛などしていなければ、まったくの別世界だったそれらを知るうち、「私」というものがいかに小さくて退屈で面白みがないか、まざまざと見えてしまう。(略)私が相手を知りたいと思うくらい、相手にも私を知ってもらいたいと切望する。知ってもらいたいと思うに値する、広い部屋になりたいと思う。

 こうした心持ちの時、違う価値観を持つ恋愛相手をただ否定することはまずなくて、なんとか理解しようとする。ときに自分自身を否定すらして、価値観をすりあわせようとする。そんなこと、恋愛じゃなきゃできっこない。(略)でも、その、自分を抑えてでもなんとか他者を受け入れたい気持ちというのが、究極の人とのかかわりだと私は思うわけである。

 その究極の他者とのかかわりとのなかで、私達自身の知らなかった自分を向き合うこともある。思うよりきれいな部分が見えることもあるし、目をそらしたいほど醜い部分を見てしまうこともある。そうしながら、なんとか、もっともっときれいになろうと思う。見かけばかりではない、中身ごと、(略)こうしたことも恋愛していなければなかなかできないことだ。

 そうして気がつけば、自分という窮屈でらんとしていた部屋が、いつしか広くなり、窓も扉も開き、インテリアも充実したりする。

 恋愛が終わったとしても、窓も扉も閉じないし、中身も減じない。恋愛終焉の傷が深ければ深いほど、もう窓も扉も閉め切ったようなつもりになるけど、じつは、ずっと開いている。次に人にかかわるとき、もっと楽になっていることにきづくはずだ。そして、ほかの人から見ても、閉じて狭い人よりは、開いた人のほうがずっと魅力的に見える。かなしみや傷が、その人も見えざる魅力になるなんて、恋愛の場合しかない。

恋愛は、そんなにいいものではない。でもするだけの価値はちゃんとある。これまた、年齢を経てから確信したことなのである。

 

わたしが恋愛を語るのは恋や愛がロマンチックだから。すてきだから。ではない。

すてきなことではあるのだが、すてきだけではない。と思う。全部ひっくるめて「恋愛」なのだと思う。なぜなら恋人との「ガチの付き合い」になるから。「究極の他者との関わり」角田さん。好きだから、真剣になる・喧嘩もする。すきだすてきだ、だけじゃないのである。

恋愛における「すてき」だけを吸収して「すてきじゃない」を排除するのは個人の好き好きだと思うのだが、わたしは「半面」しか生きていない気がして、そんな快楽なら要らないな、って思うのだ。うそっこいからだ。両面生きてこそ快楽も深まる。ってものだ。

この点は恋愛に限らない。人生において、閉じる経験も必要だと思うのは開きっぱなしは「すてき」だけを吸収しているだけと同じだからだ。

閉じていても成長している、「閉め切っているつもりになるけど、じつは、ずっと開いている」と角田さん。

 

椎名林檎の「幸福論」は、ひとつの恋愛の表と裏を描いた。と思う。また「幸福論」は「すべりだい」の続編としての位置づけだ、とも後日語られていることをこれを書くにあたり知った。

ちなみに「幸福論」は1999年に12cmシングル版として大ヒットシングル「本能」と同日に再リリースされ、98年版と99年版と2種類のシングルがありますが、99年版には「時が暴走する」がさらに追加されている。この3曲で椎名さんの経験した恋愛のひとつの集大成なのかもしれない。

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「時は暴走する」は”デジタルの文字があたしを疲れさせる”という出だしで始まるに集約されるように、陰の部分が色濃い楽曲。わたしのイメージでは恋愛で傷つき閉じている(ように見える)状態。閉じていても(と見えても)その中で醸成されるのだと思う、むしろ必要な時期、と言いたい

「恋愛=キラキラ、リア充」と捉える当時の(今の)風潮に流されずしっかり捉えている感が、たいへん好ましい。

 

やさしいままあなたは在れるか?(君はどう生きるか?風に)

あなたが泣いていること今はわからないフリしてずっと話そう。 「beat」aikoより

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何年か前ネットで誰かが質問しているのを見た。「『あなたが泣いていること今はわからなフリしてずっと話そう』ってどういう意味ですか?」って

この人はやさしいんだよ、とわたしなら答える

 

「どうしたの?」「大丈夫?」「辛そうだね」「よかったら付き合うよ、話して」。声をかけたくなるだろう。「いつだってあなたがわたしを見てた それだけで乗り越えられてきたの 切なくて うれしい」とも歌われている。「あなた」はこの人にとって大事な存在なのだろう。

 

水平線が見えた やさしい世界のはじまり

誰も今のあなたを責めたりできない

 

と続くのは、自然な流れだと思った。

「あなた」は完璧なやさしさに包まれている。

きっと「あなた」はいつか泣き止み、立ち上がる。水平線。新しい世界。

タイトルが「beat」。何かがはじまりそうな。かんぺき。aiko天才。(aiko愛炸裂)

(ちなみに「あなた」はこの人のことなのだ、と歌から離れたリスナー目線でずっとわたしは聞いていました)

 

どういうことか。

 

多くの人は「泣いている人を前に知らないフリしてずっと自分の話を続ける人」を見てどう思うのだろうか。

「冷たい」と感じる人が、きっと上記の「声掛け」を選択するのではないか。

 

やさしさとは何か?

この人は何を求めているのか?

求めているものを差し出すことがやさしさなのでないか?

この場合、声をかけることはあなたにとっての「自己満足」に過ぎないのではないか?

 

やさしい人は迷っている、と思った。

その迷いは「揺れ幅」ということもできる。

幅があるから自分以外の価値観を受け入れることができる。

幅がない状態とは「自分は間違えていない」「正しい」と確信のある状態。

自分にない価値観を想像できる「幅」は、「知性」と言い換えることもできる。

 

言い換えると「やさしさは知性がなければ成立しない」。

 

「『あなたはやさしくないのだ』(=なぜ泣いているの人を前に知らないフリして話し続けるのか?)人から揶揄されて、なお「知らないフリして話し続ける」なら、相手が望んでいないことをよく知っているからだとわたしは思う。それは「強さ」自分を貫く強さではない、相手を守る強さだ。

 

「強くなければやさしくなれない」。即ち、

「強いひとはやさしい」。

 

もし強くなかったら周りにほだされて自分が傷つかないように「知らないふり」をやめ、世間一般の「やさしさ」に従う。自分を守るために相手を犠牲にする。なんだかんだと「そこまで酷いことをしているわけでもないから」等々自分に言い訳をしつつも自分の利益に走る。「よくない」と声を出す自分を後ろへ追いやり、自分に嘘をつく。

 

強い人は迷っている。

迷っている人が「弱い」のではない。

迷っていない、つまり「自分は正しい」と迷いを振り払い、批判否定を繰りかえす人間が、強いフリをした「本当の弱虫」だ。

 

夏目漱石太宰治芥川龍之介も、迷っている。

迷いが作品となっている。

長い「時の試練」から生き残って、読み継がれているのはなぜか。そこに琴線が触れるものがあるからだ。人間の本質に迫っているからだ。自分に都合の悪いこと」であっても、真摯な目を傾け続けた。やめなかった。強かったのだろうか、いや、迷い、苦しんでいただろう。その葛藤が作品を生み、今日に至ってもなお「生きよう」と思う強さ・やさしさを、世紀を超えて、私達に与えてくれる。

 

ごめんなさいとあなたは言えるか?(君はどう生きるか?風に)

インスタで「モラ男にモラハラ受ける女性はすぐ『ごめんなさい』と口にする謝り癖がある」って出てきた

 

違うと思う。
自分が悪いと思ったらモラ男や周りや世間にバカにされても謝る「強さ」。
自分が悪いことしていないと思うならモラ男や周りや世間がどうあっても謝らない「強さ」。

 

それが出来ておらず相手の「顔色に合わせて謝る」から都合よく扱われるのであって、「頻繁に謝る」ことが悪いのではない。

 

謝る時は謝る、謝らない時は謝らない。そのような毅然とした態度は、結局は、 

自分に対する「誠実さ」とか「純粋性」に行き着く。

 

 

誠実な人間は「利用されやすい・弱い」と時々聞く(例:正直者はバカを見る)。そうだろうか、

それは表面的な誠実さだからだ。他者に愛されたいと視点が他者にあったり、誠実さを差し出す代わりに自分の価値が欲しいと思う、純粋性に欠ける。

自分の芯から「したいからする」のみの誠実な人間は「強さ」なしには成し得ない。

 

周りからどう見られるか、ではない、

周りに対してどう振る舞うか、でもない、

自分はどうなのか?を見つめる「強さ」を。

 

 

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秋について語ったら太宰とスラムダンクになった

「ア、秋」(太宰治)。タイトルからしてイイ。あ、10円みつけた。って感じでイイ。わたしは秋がすき。秋生まれでよかった。わたしの名前に「あき」が入っているが春生まれなら「はる」、夏生まれなら「なつ」、冬生まれなら「ふゆ」が名前の一部になることは決まっていたそうだ。ダサっ。ひさん。中学生の時は「夏子」とか、かっこイイと思っていた。「春子」は友人にいたが、成績も性格もいいすてき女子だったが名前が気の毒と勝手に思っていた、が、ある時革命が起きた。スラムダンクのヒロインが「はるこさん(赤木晴子)」だったので、一気に悪イメージ返上されたのだ。はるこ、かわいい。晴子さんがブスキャラじゃなくてよかった。ありがとう井上先生(作者)。冬子は論外。冬美はいいね。坂本冬美。晴代もいいな。夏はなんでも大体許される(きがする)。夏、圧勝、ずるい。

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(画像は「はるこさん」こと赤木晴子。「スラムダンク井上雅彦より)

 

さて、前置きが長くなりましたが、「ア、秋」を読んでわたしはいろいろ思った。

「ア」がカタカナで「、(読点)」を使っているところが小技が効いてにくい。こにくたらしい。

「秋は、ずるい悪魔だ」と太宰はいう。なんだと、ずるいのは夏だろ。

 

以下「ア、秋」太宰治(全文)↓

 

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以下、印象的な箇所の抜粋(テストでる)

”秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。”


 ”秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼けいがんの詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者くせものである。”

 

わたしねえ。そうだなあ、そうだよねえ、って思ったの。

夏が終わって秋が来る、のじゃないの。秋は夏のはじまりから在るの。息を潜めているの。そして気付くと、秋が夏を乗っ取っているの。ずるい。だそう。です。そうか、やられた。その通りじゃんか

私達が夏だと思って見ているものは「夏ではなくて夏の残像」だったのではないか。。。

 

これって「自然の摂理」を文学的に切り取ったようなものだ、とわたしは思った。その証拠にわたしはXで「市井の人」が同じことを言っているのを見たことがある。太宰とか興味なさそうな、ふつうの。若い男性っぽかった。

その人は夏至」のことを言っていたのだ。内容は、

 

夏至がくると「いよいよ夏が始まる」って雰囲気で盛り上がってくるが、夏至を堺に日中の時間がどんどん短くなっていく。夏の始まりというより夏がどんどん遠ざかっていく「さみしさ」を感じる”

 

感じやすい人は感じ取っているのだ。現代でも。

 

文学に興味がなくても感じる人は感じるのだろう。文学の素質があるといえばそうだが、そんな簡単にまとめたらつまらない。

太宰が「自然現象」を文学的に、且つわかりやすくまとめたと言ったほうが「事実に近い」、わたしはそんなふうに捉えたい。

太宰が市井の人の言葉を拾ったのだろうか、いや太宰自身が感じたことだったのだろう、そうであるなら、太宰も市井の人だ、それをいうなら市井の人も太宰といえやしないか。

 

結局のところ、市井の人が面白い。自然と口からこぼれる言葉は「知識の披露」でないほどに面白い。「ア、秋」然り、何かを変形させようとしたり、何の意図も目的もないものであるほど、面白い。街角が面白い。哲学も文学も、本の中だけでなく、公園に、アスファルトに、駐車場に、転がっている。のかもしれない。

変わった世界とは、特別変わった生き方をしている人の話の中にあるのではなく、遠く離れた異国や古い遺跡や桃源郷にあるのでもなく、普通の人の普通の経験の中に転がっている、気がする。

 

秋はなくなる、という。

 

 

温かい気持ちがふわっと湧いたこと。

クラシさんの「クラシFM」が好きです。

特にここ何回かはしんみり心に沁み渡る、大人の回って感じです。好きです。

 

「144 わたしは嫌いだったよ」

も、一編の小説を読み終えたような、心が洗われる、よい放送でした…

 

 

 


そう感じたのは、放送の中に登場する「ふみちゃん」と自分が似ていたからかもしれません。

 


「ふみちゃん」とは、クラシさんの小学生の同級生で当時クラスの大多数が好きだと言っていた担任の先生を、大人になって「わたしは好きじゃなかったんだよ」と話してくれた女性だそうです。

 


(詳しくは放送をお聞き頂きたい!)

以下印象に残った箇所。


"言いづらかったでしょうね…、みんなが先生のこと好きって言ってる大多数のそういう雰囲気の中で声を出して雰囲気壊すようなこと……"

 


"そういうふうに思ってる人のこと、気がつかなかったなあ、と思って。"

 


"……ああ。そういうことか。ふみちゃん、そういうことか。"

 


"大人になってもそういう場面ってあるだろうし。そういう人に気づいてあげられるような人になりたいな、って思った。"

 


 


わたしも嫌いなものを嫌いと言って、その場に居づらくなったことがあります

 


習い事の先生は贔屓してると思ってたから、そう言って、去年の秋頃から行けなくなりました。

 


まあ自分が悪いです。

 


「わからないの?雰囲気壊すようなことだって」って聞かれたら、あの頃はうっすら、今はもっと、さすがにわかるよ、と答える。

けれど自分の気持ちに嘘をつくことが耐えられなかった、何かを失うと分かっていてもやらずにいられない、そういう人種もいる。

 


も少し聞いて欲しい

 


それって個人的事情と言われるかもしれないが、

わたしは親が厳しく、ずっと我慢させられてきて、「親が違うんだ」と17歳でやっとわかったけど、箱入りで育ったこともあって「支柱を失った」感覚から病気になってしまって、社会に出たらもっと症状化して出るようになって、薬を飲むようになって、そしたら今度は薬、、薬で鈍くさせられて……15年くらい…

 


ずっと「自分として生きられなかった」。それはわたしのせいだったのか?親は選べない、医療を疑うことなんて知らなかった、特に当時の精神医療は薬物治療が今より普通とされていて……

 


やっと.自分として生きられるようになったのは薬をやめたここ数年。もうやなんだ。守り抜くしかないの…

 


そんな長い話、誰も聞いてくれないよ。

 

この瞬間のわたしだけ。今のわたしすべては、今だけではかられる。過去の話なんか誰も聞いちゃくれいない。わたしだけじゃない、お互いそゆことをやってるんだ、

 


みんな忙しいの、他人に興味ないの。

生きることはそれだけ大変だ、わたしもそうだ、きっとほとんどの人がそう。

だから黙る。

 


だから、

クラシさんみたいに言ってくれる人が、嬉しくかったし、救いで、

 

温かい気持ちがふわっと下から湧いて来た。

 

 

 

だから、たとえ「気づいてもらえなかった」でも構わない、まず「お互いさま」ってある。

期待するほどに失望して相手を嫌悪してしまう、それを繰り返して来たからさ、

 

 


ただ居てくれること、そういう人もいるらしい、ってこと。

「希望」だ……。これだって、ひとつの。

 

 

 

そんなことを思いました。

 

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物を減らすこと。

2014年に薬をやめて真っ先にやったことはなぜか「物を減らす」ことでした。塾講師をやっていたので資料を間違えて捨てたらえらいことになるので生徒の入試が終わる3月を待って、3ヶ月毎日物を減らし続けました。夜中の3時までやっていたこともあります。一段落つくまで半年ほどかかりました。それだけ物が部屋にぎゅうぎゅうになった所謂「マキシマリスト」でした「隙間活用」の収納の仕方が良いとアホのように信じていたので、隅から隅までぎゅうぎゅう。こっちをそっちの移そうとするとそっちに物がいっぱい、空白ゼロどこもかしこも。

ミニマリスト」の存在はその前後で知っていたけど片付けのきっかけになったかどうか?というと怪しいです子供の頃から教科書とかはぶんって投げて表紙がくちゃくちゃなのに、部屋の片付けはよくやっていてお布団にしわがあるのが嫌で敷き直すとか「潔癖」だったのかもしれません。けど、この時は「整理する」以上に「減らしたい」でした。ミニマリスト云々よりいっぱいいっぱいだったのかもしれません、何が?ってわからないんだけど、「情報」とか?今もわからないけど何かに。心も頭もいっぱいいっぱいだったのかな、と思います。

15年近く薬を服用していたため鈍くさせられていました。「自分が自分じゃなくさせられていた」感覚です。喜びも悲しみも、十分に感じられることのないまま、存在を認識されることなく、放出されることなく、体内に溜まっていた…のかなあ??よくわかりません。

 

感情と物は関係ないように思うのですが、物を減らして、この「いっぱいいっぱい」がなくなりました。どのくらい減らしたの?と聞かれると、「服だけで衣装ケース8個分」です。衣装ケースも処分しました。服の8割はリサイクルへ持っていきました。服好きなので服への愛が強過ぎて捨てられない…。次の人に大事に着て欲しい…。

棚などの家具はメルカリで売りました。

教材や本はどうしても捨てられませんでした。残したのは、使うかわからないけどわたしにとって大事なものだったからだと思います。といっても、東北震災で「物に殺される」と実感したので、その時本は半分以上減らしていたのですが。(命にかえられない、と思った)

 

服を減らす時残す基準は以下。自分ではじめからなんとなくこうしていた。

・自分の気に入ってるもの

・まだ着れるか(気に入っててもボロいのは捨てる)

・そんなに気に入ってると思ってないけどなんか知らんがよく着てる(着回しきく等)

※服に限らず大体コレ基準

 

洗いざらい処分した後、クローゼットに残ってぶら下がってる服を見て「わたしはこういう形や色が好きだったのだな」と思いました。わかってるつもりだったのに、例えばビンテージで買った古着は形や色が独特でそれが可愛いと思っていたのに気づくと無くなっていました。シンプルな形で、色はモノトーンや淡い色、古着ではなく新品、スカートやワンピ。が多く残っていた。たぶん、わたしの「本当の好き」なんだと思います。

 

窓を開けると風が入ってきて、クローゼットで揺れる服を見ていたら、服も気持ちよさそうで、なんだかわたしも気持ちよくなりました。

それまでは窓の前に棚を置いていたので、風通しが悪かったのです。

カーテンも風で揺れます。その時、ゆらゆら床で踊る陽の光に気づきました。床も物がいっぱいでラグも敷いていた。陽の光がこんなに楽しそうできれいだと気付かなかった。

夕方になると西日に変わり、オレンジ色が壁を部屋を染める。鏡に西日が反射して壁に影絵を作る。朝は、青色。ディズニーランドだって夢の国だけど、自然が作る夢の国はなぜだかディズニーランドより癒やされました。自然のちから?不思議。

西日は壁が焼けるとか暑いとか、評判が良くないけど、西日が一番きれいだとその時、発見しました。

 

物を減らしてそんな日を送るようになったからでしょうか。心の風通しもよくなった気がしました。わたしはよく、あの、「クローゼットで揺れる服」を思い出します。カーテンに揺れる、やわらかい陽射し、西日が反射したハートの鏡の影、オレンジの壁。青く染まる部屋。

 

だからなのかな?今でも定期的に物をチェックします。わたしは放っておくと「どんどん増える」タイプのようで、定期的に減らして「増えてもいいのだが増えすぎない」を心がけています。

言い換えると「心地よい」「適度」「自分にとってのちょうどいい」と言われる状態への心がけです。「減らすこと」が絶対ベストではなく「自分にとっての心地よさ」の追求。ので、大抵自分の気持ちと向き合うことになり、そうやって何を減らすか決めます。

 

繰り返してやっていて思ったことは、たぶん「増やしてはいけない」のではなく「増えてもいい」と自分に許すこと(だけど増やしすぎない)が「わたしにとっての心地よさ」みたいです。

 

 

 

 

 

わたしの好きはわたしが決める

「人の数だけ正しさはある」と述べたら「それでは正しさは存在しないのでないか。その奥にあるものを見ないといけないのでないか」(奥にあるものについては言及されていない)と述べた人がいて「正しさの奥にある正しさ(らしきもの)は存在する」というのがその人の「正しさ」なのだがな、と思った。自分の声に耳を傾けることは難しい。

試験が終わってからのほうが学んでいる。「何が自分に足りなかったか」「あの試験で見られていたもの」「傾聴で求められるもの」。

 

習い事で傾聴を3〜4年やっていたがわたしが働かないことで習い事の先生から「あなたは甘い。そんな甘い気持ちじゃ何をやっても仕事は出来ない」と言われたことがある。大変憤慨した記憶。

今、それを反芻する。わたしに足りなかったもの。「覚悟」だったのかな。

カウンセリングはクライエントが「普段人に話さないこと」を聞くことでクライエントが自ら気付いていく。「ああこの劣等感は幼い頃親から受けたあの体験からだったんだ」など。聞き手の存在しない「一人語り」では得られないものだ。そこでは終わらないのがカウンセリングだ。むしろそこからが始まり。スタート。カウンセラーの仕事とは回復過程に付き合う寄り添うことだ。それって具体的に何?って「離れない」ことだ。「何を言ってもいい」という安心感の中でクライエントは「受容」覚え、一度損なわれた自分を自分で癒やし、もう一度信じ、二本足で立っていこうとする。その過程は順調でないことのほうが多いだろう、カウンセラーにしてみればクライエントが裏切ったり心無いことを言ったり三歩進んだらマイナスに戻った、なんてこともあるだろう。絶望との戦いだと思う。そうやって苦労してもクライエントが自立したらそっと手を離す。離さなければいけない。この一連の過程は子供が自立するまで見守る親と同じだ。

「なぜそんなことを仕事に?」と思う。いいことあるの?

そう思った時やっと思った。ああ、わたしは確かに覚悟が足りなかったかもしれない、先生は正しかった…。

今は、さらに思う。「自分が救われることがあるから」。人の話を聞くことで。人を知り、人の弱さを知り、自分を知り、自分の弱さを知り、そうやって人との繋がりを知り、自分が孤独から離れていく。絶望」との引き換えだ。絶望を「更地」に例えた人がいた。それまでの価値観や信念が一つの瓦礫も残さず崩れる。全部崩れるから、希望の光がやっと見える。絶望は長く続ける必要はない(鬱になる、人はそんなに強くない)、ただし絶望があるから希望の光を見る。人は「希望の光」がなければ生きていけない。仄かな光でいい、それがあれば生きていける。わたしが来月も石川県へ行くことを決めたのも、ささやかであるが「希望」だ。

 

 

以前、習い事の先生は「贔屓」をしていると思った。それがきっかけでメンバーだった主婦中心に総スカンをくらう形となり、今は行っていない。先生も贔屓を認めなかった。別の学校で傾聴を並行してやっていたため必然的に学校だけ続く形になった。

 

習い事の先生を思う。どんな思いで傾聴を広めていたのか。傾聴が必要とされているからだ。そのことは学校で勉強してからさらに強く、濃いものとなり、なぜなのか、何が足りないのか、詳細まで見えてきた。もっとずっと早い時期、何年も前から先生はそれを思っていたのではないか。「昼間家に入ることが多い主婦」が「パートで払える金額」で月謝を設定して、都内に比べれば信じがたい格安価格で、良質な講義を続けていた先生。「お金のためじゃないの」「人を助けたいという気持ちより傾聴を広めたい」と話してくれた。「広まってはきたのよ。けれど深まらないわ…」とも話してくれていた。

 

先日石川県に行って「先生のところまた行こうかな」と話したら相手の人は「行ったら?」と。

「カウンセラーに向いてないもん」

「カウンセラーには向いてないかもしれないけど傾聴の勉強には向いているよ。傾聴前と後の君は全然違うよ。もっと感情に翻弄されることが多かったし、それだけ常にいっぱいいっぱいだったんだろう。今は、人の気持ちや想像する余裕がある」「人に教え広めるのはその次の段階でいいじゃない」

「誰かのために生きたいと思えない」

「思わなくていいよ」

 

ああ…わたしは受容されている、、、、それが前よりハッキリ、わかる…。勉強したからだ…、、

 

先生の素晴らしさが前よりわかる。別の場所で勉強したからだ。いろいろあったが傾聴の先生としては素晴らしかった。先生もよく勉強していた、実力があった。クライエントが絶えることなく、噂を聞きつけて遠方からも来る、勉強しているメンバーからも愛され人望があった、それが証明だ…

 

とはいえ、主婦がひどすぎた。でもそれって結局わたしの「正しさ」だ。頭ではわかっている。でも整理がつかない。これが今のわたし。

 

合否発表までまだ日があります。傾聴に全エネルギー注いだので疲れちゃった、今は休みたい。好きなことって自然と「心血注ぐ」よね…。誰に言われるでもなく。「やるな」と言われてもやらずにいられない。だから、疲れちゃったんだよね。

それが「好き」ってこと。

 

わたしの好きはわたしが決める。