市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

ジャ◯騒動を見ていて

人の長所と短所は地続きだなと思う。こちらの都合で「ここから短所だからパスっと切除」とやったら長所も切り落としてしまうかもしれないでのはないか、と思う。ここから長所ここから短所、なんて分けられないのが人間なんじゃないかなー。

昔、松田聖子さんと中居正広さんを見ていて「人生そのものが演技の人は演技の仕事をしたらどれだけ上手なんだろう」と思っていたらお二方ともドラマや映画デビューしたので、見たら二人ともリッパにへたぴーだった。「人生演技の人は演技が案外へた」という結論に至ったが、わたしは松浦亜弥さんことあややが好きですがあややも然り。アイドルって所詮「演技」「つくりもの」だからなー。だけど全員共通してアイドルとしては大成したね。

 

じゃあ演技の上手な人ってどんな人なんだろう?

「溜め込んでいる人」じゃないかと思った。

普段から陽キャというより陰キャタイプ。思いを発散出来ない人が「表現」を始めると溜まったドロドロのマグマが噴出するかの如く、なんだか「すげえ」みたいなものを出す(気がする)。演技だけじゃなくて、歌も。芸人なんか特にわかりやすい気がします。

 

芸人ってたぶんクラスで「目立たないタイプ」だったりするんじゃないか。他人を笑かしても本当は「ピエロ」、つまり他人を笑わすことで自分の立ち位置を得るような。物悲しいな。。。。そう。笑いも「毒」がある。人を馬鹿にする笑いはポリコレ的にアウトになってきているけど落語は結構人を馬鹿にする「毒」がある。「毒」のない笑いはなんだかわさび抜きのお寿司みたいで、食べやすいが物足りない。

 

陽キャって普段から発散してると思うのだ。発散してる人は、特にもう、出すものがないっていうか、薄くなってる。から、一過性だったり、その場でウケても長期的には欠けているというか、要するに「人を動かす」ようなものに欠ける。その代わりぱーっと場を盛り上げる華やかさはあるのもしれない。

 

今のタイミングで言うのは批判を受けそうですが、ジャニ騒動も似たようなものを感じる。性加害は被害者を思うと許されるものでは到底ないということは前提ですが、ジャニ◯川が「売れるタレント」を見抜く目があったのは、男性(男児)を性対象として見る目があったことは切っても切り離せないと思う(悲しいことではある)。あの人がノンケってやつだったら事務所自体が今存在しなかったかもしれない

ジャニタレントに特徴的な、あのキラキラ歌って踊ってくるくる回ってる(イメージ)のステージは、ジャニ◯川の妄想世界を具現化したものだったんだろうなあと思う。そしてそれが売れた。ひとつじゃなく、次々と。わたしはファン経験はほとんどないけれど流行っていたから享受はしていた部分はあったと思う、歌を知っているとか。友人との話題に上がったりとか。多かれ少なかれ、日本人でジャニーズの影響を受けていない人ってそう多くはないのではないか。

ジャニ◯川のやったことは間違いなく許されることではない(被害者がいる)けど、事務所やジャニだけを責め立てて正義をふりかざすのは正義に酔った醜い姿だな、と思ったりする。ここぞとばかりに鬱憤晴らししているようにも見える。この点はジャニ問題に限らない。

ファンでもない一般人には知るよしもなかった事実が多く露呈されてるけど、そういうことが許される社会が結局出来上がっていたのは、社会に生きる私達ひとりひとりがここまでくることを認めていた、ということ(メディアの嘘くささなんて誰しもうっすら知っているのでないか。声を上げる人は、しかしほぼいなかった、この問題に限らない)、ひとりひとりに責任がないとは言い切れないわたしは思う。事務所やジャニましてやタレントだけを責める気にはわたしはなれない。そうするくらいなら防止策や被害者の救済をどうするか考えたほうが賢明だ。そして正義にまだ近い。と思う(正義とはなんだろう)。