やさしいままあなたは在れるか?(君はどう生きるか?風に)
あなたが泣いていること今はわからないフリしてずっと話そう。 「beat」aikoより
何年か前ネットで誰かが質問しているのを見た。「『あなたが泣いていること今はわからなフリしてずっと話そう』ってどういう意味ですか?」って
この人はやさしいんだよ、とわたしなら答える
「どうしたの?」「大丈夫?」「辛そうだね」「よかったら付き合うよ、話して」。声をかけたくなるだろう。「いつだってあなたがわたしを見てた それだけで乗り越えられてきたの 切なくて うれしい」とも歌われている。「あなた」はこの人にとって大事な存在なのだろう。
水平線が見えた やさしい世界のはじまり
誰も今のあなたを責めたりできない
と続くのは、自然な流れだと思った。
「あなた」は完璧なやさしさに包まれている。
きっと「あなた」はいつか泣き止み、立ち上がる。水平線。新しい世界。
タイトルが「beat」。何かがはじまりそうな。かんぺき。aiko天才。(aiko愛炸裂)
(ちなみに「あなた」はこの人のことなのだ、と歌から離れたリスナー目線でずっとわたしは聞いていました)
どういうことか。
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多くの人は「泣いている人を前に知らないフリしてずっと自分の話を続ける人」を見てどう思うのだろうか。
「冷たい」と感じる人が、きっと上記の「声掛け」を選択するのではないか。
やさしさとは何か?
この人は何を求めているのか?
求めているものを差し出すことがやさしさなのでないか?
この場合、声をかけることはあなたにとっての「自己満足」に過ぎないのではないか?
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やさしい人は迷っている、と思った。
その迷いは「揺れ幅」ということもできる。
幅があるから自分以外の価値観を受け入れることができる。
幅がない状態とは「自分は間違えていない」「正しい」と確信のある状態。
自分にない価値観を想像できる「幅」は、「知性」と言い換えることもできる。
言い換えると「やさしさは知性がなければ成立しない」。
「『あなたはやさしくないのだ』(=なぜ泣いているの人を前に知らないフリして話し続けるのか?)と人から揶揄されても、なお「知らないフリして話し続ける」なら、相手が望んでいないことをよく知っているからだとわたしは思う。それは「強さ」だ。自分を貫く強さではない、相手を守る強さだ。
「強くなければやさしくなれない」。即ち、
「強いひとはやさしい」。
もし強くなかったら周りにほだされて自分が傷つかないように「知らないふり」をやめ、世間一般の「やさしさ」に従う。自分を守るために相手を犠牲にする。なんだかんだと「そこまで酷いことをしているわけでもないから」等々自分に言い訳をしつつも自分の利益に走る。「よくない」と声を出す自分を後ろへ追いやり、自分に嘘をつく。
強い人は迷っている。
迷っている人が「弱い」のではない。
迷っていない、つまり「自分は正しい」と迷いを振り払い、批判否定を繰りかえす人間が、強いフリをした「本当の弱虫」だ。
迷いが作品となっている。
長い「時の試練」から生き残って、読み継がれているのはなぜか。そこに琴線が触れるものがあるからだ。人間の本質に迫っているからだ。「自分に都合の悪いこと」であっても、真摯な目を傾け続けた。やめなかった。強かったのだろうか、いや、迷い、苦しんでいただろう。その葛藤が作品を生み、今日に至ってもなお「生きよう」と思う強さ・やさしさを、世紀を超えて、私達に与えてくれる。