市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

やさしいままあなたは在れるか?(君はどう生きるか?風に)

あなたが泣いていること今はわからないフリしてずっと話そう。 「beat」aikoより

youtu.be

 

何年か前ネットで誰かが質問しているのを見た。「『あなたが泣いていること今はわからなフリしてずっと話そう』ってどういう意味ですか?」って

この人はやさしいんだよ、とわたしなら答える

 

「どうしたの?」「大丈夫?」「辛そうだね」「よかったら付き合うよ、話して」。声をかけたくなるだろう。「いつだってあなたがわたしを見てた それだけで乗り越えられてきたの 切なくて うれしい」とも歌われている。「あなた」はこの人にとって大事な存在なのだろう。

 

水平線が見えた やさしい世界のはじまり

誰も今のあなたを責めたりできない

 

と続くのは、自然な流れだと思った。

「あなた」は完璧なやさしさに包まれている。

きっと「あなた」はいつか泣き止み、立ち上がる。水平線。新しい世界。

タイトルが「beat」。何かがはじまりそうな。かんぺき。aiko天才。(aiko愛炸裂)

(ちなみに「あなた」はこの人のことなのだ、と歌から離れたリスナー目線でずっとわたしは聞いていました)

 

どういうことか。

 

多くの人は「泣いている人を前に知らないフリしてずっと自分の話を続ける人」を見てどう思うのだろうか。

「冷たい」と感じる人が、きっと上記の「声掛け」を選択するのではないか。

 

やさしさとは何か?

この人は何を求めているのか?

求めているものを差し出すことがやさしさなのでないか?

この場合、声をかけることはあなたにとっての「自己満足」に過ぎないのではないか?

 

やさしい人は迷っている、と思った。

その迷いは「揺れ幅」ということもできる。

幅があるから自分以外の価値観を受け入れることができる。

幅がない状態とは「自分は間違えていない」「正しい」と確信のある状態。

自分にない価値観を想像できる「幅」は、「知性」と言い換えることもできる。

 

言い換えると「やさしさは知性がなければ成立しない」。

 

「『あなたはやさしくないのだ』(=なぜ泣いているの人を前に知らないフリして話し続けるのか?)人から揶揄されて、なお「知らないフリして話し続ける」なら、相手が望んでいないことをよく知っているからだとわたしは思う。それは「強さ」自分を貫く強さではない、相手を守る強さだ。

 

「強くなければやさしくなれない」。即ち、

「強いひとはやさしい」。

 

もし強くなかったら周りにほだされて自分が傷つかないように「知らないふり」をやめ、世間一般の「やさしさ」に従う。自分を守るために相手を犠牲にする。なんだかんだと「そこまで酷いことをしているわけでもないから」等々自分に言い訳をしつつも自分の利益に走る。「よくない」と声を出す自分を後ろへ追いやり、自分に嘘をつく。

 

強い人は迷っている。

迷っている人が「弱い」のではない。

迷っていない、つまり「自分は正しい」と迷いを振り払い、批判否定を繰りかえす人間が、強いフリをした「本当の弱虫」だ。

 

夏目漱石太宰治芥川龍之介も、迷っている。

迷いが作品となっている。

長い「時の試練」から生き残って、読み継がれているのはなぜか。そこに琴線が触れるものがあるからだ。人間の本質に迫っているからだ。自分に都合の悪いこと」であっても、真摯な目を傾け続けた。やめなかった。強かったのだろうか、いや、迷い、苦しんでいただろう。その葛藤が作品を生み、今日に至ってもなお「生きよう」と思う強さ・やさしさを、世紀を超えて、私達に与えてくれる。