市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

秋について語ったら太宰とスラムダンクになった

「ア、秋」(太宰治)。タイトルからしてイイ。あ、10円みつけた。って感じでイイ。わたしは秋がすき。秋生まれでよかった。わたしの名前に「あき」が入っているが春生まれなら「はる」、夏生まれなら「なつ」、冬生まれなら「ふゆ」が名前の一部になることは決まっていたそうだ。ダサっ。ひさん。中学生の時は「夏子」とか、かっこイイと思っていた。「春子」は友人にいたが、成績も性格もいいすてき女子だったが名前が気の毒と勝手に思っていた、が、ある時革命が起きた。スラムダンクのヒロインが「はるこさん(赤木晴子)」だったので、一気に悪イメージ返上されたのだ。はるこ、かわいい。晴子さんがブスキャラじゃなくてよかった。ありがとう井上先生(作者)。冬子は論外。冬美はいいね。坂本冬美。晴代もいいな。夏はなんでも大体許される(きがする)。夏、圧勝、ずるい。

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(画像は「はるこさん」こと赤木晴子。「スラムダンク井上雅彦より)

 

さて、前置きが長くなりましたが、「ア、秋」を読んでわたしはいろいろ思った。

「ア」がカタカナで「、(読点)」を使っているところが小技が効いてにくい。こにくたらしい。

「秋は、ずるい悪魔だ」と太宰はいう。なんだと、ずるいのは夏だろ。

 

以下「ア、秋」太宰治(全文)↓

 

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以下、印象的な箇所の抜粋(テストでる)

”秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。”


 ”秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼けいがんの詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者くせものである。”

 

わたしねえ。そうだなあ、そうだよねえ、って思ったの。

夏が終わって秋が来る、のじゃないの。秋は夏のはじまりから在るの。息を潜めているの。そして気付くと、秋が夏を乗っ取っているの。ずるい。だそう。です。そうか、やられた。その通りじゃんか

私達が夏だと思って見ているものは「夏ではなくて夏の残像」だったのではないか。。。

 

これって「自然の摂理」を文学的に切り取ったようなものだ、とわたしは思った。その証拠にわたしはXで「市井の人」が同じことを言っているのを見たことがある。太宰とか興味なさそうな、ふつうの。若い男性っぽかった。

その人は夏至」のことを言っていたのだ。内容は、

 

夏至がくると「いよいよ夏が始まる」って雰囲気で盛り上がってくるが、夏至を堺に日中の時間がどんどん短くなっていく。夏の始まりというより夏がどんどん遠ざかっていく「さみしさ」を感じる”

 

感じやすい人は感じ取っているのだ。現代でも。

 

文学に興味がなくても感じる人は感じるのだろう。文学の素質があるといえばそうだが、そんな簡単にまとめたらつまらない。

太宰が「自然現象」を文学的に、且つわかりやすくまとめたと言ったほうが「事実に近い」、わたしはそんなふうに捉えたい。

太宰が市井の人の言葉を拾ったのだろうか、いや太宰自身が感じたことだったのだろう、そうであるなら、太宰も市井の人だ、それをいうなら市井の人も太宰といえやしないか。

 

結局のところ、市井の人が面白い。自然と口からこぼれる言葉は「知識の披露」でないほどに面白い。「ア、秋」然り、何かを変形させようとしたり、何の意図も目的もないものであるほど、面白い。街角が面白い。哲学も文学も、本の中だけでなく、公園に、アスファルトに、駐車場に、転がっている。のかもしれない。

変わった世界とは、特別変わった生き方をしている人の話の中にあるのではなく、遠く離れた異国や古い遺跡や桃源郷にあるのでもなく、普通の人の普通の経験の中に転がっている、気がする。

 

秋はなくなる、という。