市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

わたしの好きはわたしが決める

「人の数だけ正しさはある」と述べたら「それでは正しさは存在しないのでないか。その奥にあるものを見ないといけないのでないか」(奥にあるものについては言及されていない)と述べた人がいて「正しさの奥にある正しさ(らしきもの)は存在する」というのがその人の「正しさ」なのだがな、と思った。自分の声に耳を傾けることは難しい。

試験が終わってからのほうが学んでいる。「何が自分に足りなかったか」「あの試験で見られていたもの」「傾聴で求められるもの」。

 

習い事で傾聴を3〜4年やっていたがわたしが働かないことで習い事の先生から「あなたは甘い。そんな甘い気持ちじゃ何をやっても仕事は出来ない」と言われたことがある。大変憤慨した記憶。

今、それを反芻する。わたしに足りなかったもの。「覚悟」だったのかな。

カウンセリングはクライエントが「普段人に話さないこと」を聞くことでクライエントが自ら気付いていく。「ああこの劣等感は幼い頃親から受けたあの体験からだったんだ」など。聞き手の存在しない「一人語り」では得られないものだ。そこでは終わらないのがカウンセリングだ。むしろそこからが始まり。スタート。カウンセラーの仕事とは回復過程に付き合う寄り添うことだ。それって具体的に何?って「離れない」ことだ。「何を言ってもいい」という安心感の中でクライエントは「受容」覚え、一度損なわれた自分を自分で癒やし、もう一度信じ、二本足で立っていこうとする。その過程は順調でないことのほうが多いだろう、カウンセラーにしてみればクライエントが裏切ったり心無いことを言ったり三歩進んだらマイナスに戻った、なんてこともあるだろう。絶望との戦いだと思う。そうやって苦労してもクライエントが自立したらそっと手を離す。離さなければいけない。この一連の過程は子供が自立するまで見守る親と同じだ。

「なぜそんなことを仕事に?」と思う。いいことあるの?

そう思った時やっと思った。ああ、わたしは確かに覚悟が足りなかったかもしれない、先生は正しかった…。

今は、さらに思う。「自分が救われることがあるから」。人の話を聞くことで。人を知り、人の弱さを知り、自分を知り、自分の弱さを知り、そうやって人との繋がりを知り、自分が孤独から離れていく。絶望」との引き換えだ。絶望を「更地」に例えた人がいた。それまでの価値観や信念が一つの瓦礫も残さず崩れる。全部崩れるから、希望の光がやっと見える。絶望は長く続ける必要はない(鬱になる、人はそんなに強くない)、ただし絶望があるから希望の光を見る。人は「希望の光」がなければ生きていけない。仄かな光でいい、それがあれば生きていける。わたしが来月も石川県へ行くことを決めたのも、ささやかであるが「希望」だ。

 

 

以前、習い事の先生は「贔屓」をしていると思った。それがきっかけでメンバーだった主婦中心に総スカンをくらう形となり、今は行っていない。先生も贔屓を認めなかった。別の学校で傾聴を並行してやっていたため必然的に学校だけ続く形になった。

 

習い事の先生を思う。どんな思いで傾聴を広めていたのか。傾聴が必要とされているからだ。そのことは学校で勉強してからさらに強く、濃いものとなり、なぜなのか、何が足りないのか、詳細まで見えてきた。もっとずっと早い時期、何年も前から先生はそれを思っていたのではないか。「昼間家に入ることが多い主婦」が「パートで払える金額」で月謝を設定して、都内に比べれば信じがたい格安価格で、良質な講義を続けていた先生。「お金のためじゃないの」「人を助けたいという気持ちより傾聴を広めたい」と話してくれた。「広まってはきたのよ。けれど深まらないわ…」とも話してくれていた。

 

先日石川県に行って「先生のところまた行こうかな」と話したら相手の人は「行ったら?」と。

「カウンセラーに向いてないもん」

「カウンセラーには向いてないかもしれないけど傾聴の勉強には向いているよ。傾聴前と後の君は全然違うよ。もっと感情に翻弄されることが多かったし、それだけ常にいっぱいいっぱいだったんだろう。今は、人の気持ちや想像する余裕がある」「人に教え広めるのはその次の段階でいいじゃない」

「誰かのために生きたいと思えない」

「思わなくていいよ」

 

ああ…わたしは受容されている、、、、それが前よりハッキリ、わかる…。勉強したからだ…、、

 

先生の素晴らしさが前よりわかる。別の場所で勉強したからだ。いろいろあったが傾聴の先生としては素晴らしかった。先生もよく勉強していた、実力があった。クライエントが絶えることなく、噂を聞きつけて遠方からも来る、勉強しているメンバーからも愛され人望があった、それが証明だ…

 

とはいえ、主婦がひどすぎた。でもそれって結局わたしの「正しさ」だ。頭ではわかっている。でも整理がつかない。これが今のわたし。

 

合否発表までまだ日があります。傾聴に全エネルギー注いだので疲れちゃった、今は休みたい。好きなことって自然と「心血注ぐ」よね…。誰に言われるでもなく。「やるな」と言われてもやらずにいられない。だから、疲れちゃったんだよね。

それが「好き」ってこと。

 

わたしの好きはわたしが決める。