市井さんのblog

市井の人によるしがない日常

上白石萌音さんから太宰治へ

上白石萌音さんがすきなのですが、「悲しみよこんにちはサガンについて紹介してくださっています。

【上白石萌音】世の中が嫌になった人にオススメの本|#木曜日は本曜日 - YouTube

知人がこの動画を送ってきてくれました。上白石萌音さんのことは何も知らないそうですが「悲しみよこんにちは」はわたしの部屋の本棚に、買ったのを忘れて繰り返し買った3冊が収納されており、繰り返し読んだ本のひとつです。つまりだいすきな本ってことです。

 

上白石萌音さん(動画より)☟

「私は清らかに見られるけどそうでもない」

「自分のメンタルの調子に拠りますけど、それが気にならない時とすごく嫌になる時がある」

「自分も周りも嫌になる」「黒いし、闇がある」「感情を言葉にできない」「モヤモヤ」

「その感情を全部書いてくれた」

「本を逃げ場にしていい」

 

10代っていろんな感情が混ざり合ったりしませんか

時としてどろどろにもなる

相手に魅力され夢中になりキラキラした恋愛に憧れながら、どこか相手を軽蔑してイラついていたり。(え?ない?)

太陽は眩しく若い希望に溢れしかし、全てが善に見えるほど幼くもないから、どこか失望もしている。(え?そんなことない??)

 

言葉にならない混沌とした感情、それが少女(少年)なのでしょうか?

それならわたしは、ずっと、少女というよりもっとかっこわるく、青臭い思春期です

永遠に青臭い思春期。「中二病」と言えばいいのか。

バカにもされるし笑われもする。悪口に近い、批判めいたものを受けたり、自分がそれに対して対策しないから(それでいいと思っているから)、「繰り返してるだけなんて狂気の沙汰」「何もやらない」と人を苛立たせたり怒らせたり、ああしろこうしろとアドバイスや指示めいたものをされたり…もする。

 

さてさて、そんなわたしが今逃げ場にしている本はコチラです

 

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太宰治『待つ』より本文抜粋

「いったい私はここに座って、誰を待っているのでしょう。どんな人を?いいえ私の待っているものは、人間でないかもしれない。私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合せて、お変わりありませんか、寒くなりました、などと言いたくもない挨拶を、いい加減に言っていると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にいないような苦しい気持ちになって、死にたくなります。そうして、また、相手の人もむやみに私を警戒して、当たらずさわらずのお世辞やら、もったいぶった嘘の感想などを述べて、私はそれを聞いて、相手の人のけちな用心深さが悲しく、いよいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります。」

 

「世の中の人というのは、お互い、こわばった挨拶をして、用心して、そうしてお互いに疲れて、一生を送るものなのでしょうか。私は人に逢うのがいやなのです。だから私は、よほどのことでもない限り、私のほうからお友達の所へ遊びに行くことなどは致しませんでした」

 

感動したのである。似たようなことを書く作家やブロガーは、いる。みたことある。しかも何度も、ある。しかし、そこまで響かない。似たような内容は幾度となく見かけるのに、太宰治が書くと、なにか、こう、ぴーんと、ずしんと、響くのである。現代作家やブロガーと何が違うのか。わたしにはわからない。

この人の書いているのは言ってみれば終始一貫して「愚痴」で終わっている。ついでにいうと、この作品に限らず所感としてわたしは太宰治ってなんとなく装飾が多い印象だ。びらびらと飾り付けて、気取っているといえばそうだし、ロマンチストだな、とも思う。それらを私はどちらかというと好まないのだが、太宰治は多くの場合、それでもなお、わたしの奥まですっと入り込み、わたしに、芳醇で水底の見えない沼のような「泉」にヒタヒタと裸足を浸させることとなる。それがわたしに生命力、生きる活力を与える。押し付けでは、決してない、土足でも、決して、ない。

いつのまにか下がってしまった体温に、命の息吹が、ふっと、軽やかに、吹き抜ける風程度に、通り過ぎる。